2007年12月の保育
−ともにつながるクリスマス−
もうすぐクリスマスがやってきます。
皆さんにとって、クリスマスはどんな日でしょうか。
日本の子どもたちにとっては、サンタクロース、クリスマスツリー、プレゼント、あるいは、はやりのイルミネーションかもしれません。
ある日、私は桜町幼稚園の子どもたちに聞いてみました。クリスマスって何の日でしょうと。彼らが答えたのは、イエスさまのお誕生日でしょう、恵まれない人を助ける日でしょう。ここの子どもたちは、小さいながらも神さまに心が開かれているんだなと感心しました。
イエスさまのお誕生日、だから恵まれない人たちを助ける日、心を向ける日。
神さまが、大切な御子を私たちに与えてくださった日です。神さまが私たちとともにいてくださるために、イエスさまを与えてくださった日です。ですから、私たちもともに心を合わせ、心をつないでいく日ではないでしょうか。
けれども、世の中を見渡せば、クリスマスのお祝いもできないようなつらい状況で生きている人がたくさんいます。彼らにも神さまの愛が降りそそぐことを祈ることも、クリスマスの大きな意味ではないでしょうか。
こんな話を読みました。
「私はある日、海岸を歩いていました。すると、1人の男が浜辺で何かを拾っては海に戻しています。1つ拾っては戻し、1つ拾っては戻し。彼に近づいて、何をしているのか尋ねました。彼は、潮が引いた後に打ち上げられたヒトデを海に返していたのです。私は彼に言いました。あなたがしていることはヒトデの命を助ける尊いことだけれど、この浜辺にはどれだけのヒトデがいるのかわかりません。あなたが幾ら努力をしても、すべてのヒトデを助けることはできないのではないですかと。彼は言いました。私は全世界のヒトデを助けることはできません。たとえそれが世界の一部であっても、私は私のできることをするだけです。」
神さまが私たちに御子を与えてくださったクリスマス、その意味をかみしめると、私たちは与えられた者同士、手をつないでいかなければならないと思います。
悲しい状況にある人たちに心を向ける、手をさしのべるといっても、私たちにできることは、神さまに比べれば、ほんの少ししかないかもしれません。けれども、1人が1人に手をさしのべれば、そこには、私たちが与えられたイエスさまがいらっしゃいます。私たちのできることに限りがあっても、そこに神さまの愛が限りなく降りそそぎます。
私たちの御子が与えられたクリスマス、与えられた私たちは何ができるのか、考えてみたいと思います。